こんにちは。
今日も晴れました。
暑い日が続いています。
真夏ほどではないので、
今のうちに体を慣らしていくべき・・なのでしょう。(弱)
前回の続きです。
『JIMMY CHOO』のスリッポンを取り上げようとしています。
JIMMY CHOO
レディースシューズでは非常に有名なブランドですが、
メンズシューズはそこまでとは言えないかな・・と個人的には思っています。
僕もこれまで取り上げた事がなかったブランドなので、
まずは歴史からチェックしています。
こちらの記事を読ませて頂きました。(感謝)
ジミーチュウの歴史 – ブラリズラボ【公式コラム】
JIMMY CHOO(ジミー チュウ)の歴史やデザイナーについて解説!
前回は、ジミー氏と共にブランドを立ち上げる事になる運命の人 タマラ・イヤーダイ、について書きました。
お嬢様育ちで、ファッション好き、そしてパーティーが好き過ぎたのでしょうか・・・、
一時リハビリ施設へ入らざるを得ないところまで行ってしまいました。
しかし、無事カムバックして直ぐにジミー氏へ連絡をとり、
共同で『JIMMY CHOO』を創業されました。
株式の半分はジミー氏、もう半分はタマラ氏の父親トム・イヤーダイが所有して事業がスタートしました。
その時、もう一人重要な人物がクリエイティブ・ディレクターに就任していたのです!
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クリエティブ・ディレクターに就任したのは、
ジミー氏の工房で靴作りを学んでいた一番弟子のサンドラ・チョイです。
実は、(壱)の回でチラッと登場していましたが覚えておられるでしょうか?
ジミー氏がハックニーに工房を構え、
『マノロ ブラニク』が『VOGUE』に掲載するシューズの制作に携わった事で知名度が上がり、
工房に多くのお客が詰めかけてくるようになった頃、
ジミー氏の妻レベッカの姪にあたるサンドラ・チョイが仕事を手伝うようになっていましたね。
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あらためて、サンドラ・チョイについて、
こちらも記事も読ませていただきました。(感謝)
1972年にイギリスのワイト島で生まれました。
生後すぐに香港の祖父母の元に預けられ、13歳まで香港で過ごしました。
ワイト島に戻った時のサンドラは、かなり奇抜なパンクガールになっていたそうです。
驚いた両親は修道院附属の学校に入学させました。
サンドラの美的センスは香港時代に培われていたようです。
17歳でファッションの道へ進学したいと両親に希望しましたが反対にあいます。
そこでロンドンにいるおばのレベッカの元へ転がり込みます。
そして、ロンドンの名門セントラル・セント・マーチンズへ入学します。
因みに、同窓生にはステラ・マッカトニーもいたそう。
学校でデザインを学びながら、ジミー氏の工房で靴作りの手伝いを始めました。
その後、本格的に靴作りに興味を持ち、学校を中退して工房で働き始めました。
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サンドラ氏は、ジミー氏の元でオートクチュールの靴作りのノウハウを徹底的に身に付けることができました。
また、ジミー氏はプレタポルテを立ち上げてからもオートクチュールの仕事を続けたかったために忙しく、
さらにデザイン画を描くことも得意ではなかったそうです。
そして、ジミー氏はビジネスに対する姿勢がタマラ氏と合わず、いつも喧嘩の間に入ったのがサンドラ氏でした。
サンドラ氏はタマラ氏との相性も良く、
クールなスタイルを好むサンドラ氏と上品なスタイルで統一感を演出するタマラ氏のスタイルがマッチし、
とてもバラエティに富んだスタイルを生み出すことが出来ました。
靴を一足一足作るよりもコレクション全体を生み出すことに魅力を感じたサンドラ氏は、
トム氏からクリエイティブ・ディレクター就任を打診され、
それを受けました。
今回はここまでです。
ではでは。
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