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「王道の次」のスリッポンを探求! JIMMY CHOO (弍) タマラ・イヤーダイ

 こんにちは。

 今日も晴れました。

 晴れの日が続いています。(暑)

 

 前回の続きです。

 『JIMMY CHOO』のスリッポンを取り上げようとしています。

JIMMY CHOO

 レディースシューズで非常に有名なブランドですが、

 メンズシューズは正直まだそれほど馴染みが無い・・・かなと個人的には思います。

 という事で、

 まずはブランドの歴史からチェックしています。

 こちらの記事を読ませて頂きました。(感謝)

ジミーチュウの歴史 – ブラリズラボ【公式コラム】
JIMMY CHOO(ジミー チュウ)の歴史やデザイナーについて解説!

 

 前回は、生まれから、学生期、ハックニーに工房を構え、あの『MANOLO BLAHNIK』のシューズを製作し、当時のダイアナ皇太子妃からのオーダー受注、まで書きました。

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 『マノロラニク』はシューズデザイナーブランド編に入って最初に取り上げさせて頂いたブラドでしたね。

maeego.hatenablog.com

 1972年の創業で、創業前から『VOGUE』とのご縁がありましたね。

 そしてセレブリティやドラマ・映画の影響を追い風に有名になったブランドでした。

 

 ジミー氏が『マノロラニク』の靴を製作されたのは1990年前後かと思われます。

 70年代から英版『VOGUE』に幾度も掲載され、

 80年代にはニューヨーク進出を果たし、

 ブランドが大きく成長して行った頃でしょうね。

 

 その『マノロラニク』でジミー氏が制作した靴が『VOGUE』に掲載され、ジミー氏の知名度も上がって行きました。

 遂にはダイアナ元妃からのオーダーまで受けられたのです。

 

 こうした流れは『マノロラニク』と共通していますね!

 それにしても、『VOGUE』凄いな・・。(強)

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 そして、ジミー氏にとって運命的な出会いが訪れます。

 ジミー氏のコレクションが英『VOGUE』編集長タマラ・イヤーダイ(結婚後にタマラ・

メロン)の目に止まったのです。

 『ヴィダルサスーン』の創業者の一人である父と、元モデルの母の間に生まれたタマラ氏は、幼い頃からファッションには人一倍敏感で、ジミー氏のシューズを初めて見た時にはあまりの美しさと履き心地に衝撃を受けたと話されたそうです。

 タマラ氏は共同でブランドを設立しないかとジミー氏を訪ねてきました。

 

 ここで、タマラ・イヤーダイについて、

 こちらの記事を読ませて頂きました。(感謝)

【ジミーチュウ】 ジミーチュウ成功の立役者 タマラ・メロン | ハイブランド.com

 タマラの父トム・イヤーダイは『ヴィダル・サスーン』の共同設立者の一人という筋金入りのビジネスマンで、

 母親のアン・イヤーダイはシャネルのモデルもされていたそうです。

 つまり、タマラは生まれながらのセレブで、野心に溢れた少女だったそう。

 

 8歳でアメリカ・ビバリーヒルズに移り住み、子供の頃からハイブランドの服で着飾るような学生時代を過ごしました。

 ハイスクールに上がる際にイギリスへ引っ越しました。

 

 イギリスでは、名門女子校ヒースフィールドに入学。

 しかし、ビバリーヒルズの開放的な雰囲気とは異なる閉鎖的な環境に反骨精神の火が付き、問題行動を繰り返したそうです。

 さらに、16歳でスイスのスキーリゾート地にあるインスティテュート・アルビン・ヴィダマネッタに留学して貴族令嬢たちと交友を深め、パーティー三昧。

 パリにおいてもそのような生活を繰り返していたそう。

 こうした交流が後の人脈となり、セレブ相手にも動じない精神を育んだと言われているようです。

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 タマラは自分で露店を出してブランド服を売っていた事がありました。

 それを知った父親は、本格的にファッション業界で経験を積ませようと、知り合いに連絡を取りました。

 そうして、ロンドンNo.1セレクトショップと名高い『ブラウンズ』傘下の『ショップ 24』で働く事になりました。

 

 タマラは仕事熱心で良い成績をあげ、さらにファッションへの情熱を深めていきました。

 次の仕事も父親の口添えで、PR会社を経営する『ウォルターズ』でアシスタントを務める事になりました。

 

 さらに英版『ミラベラ』のアシスタントとなります。

 そして24歳で英版『VOGUE』のファッションディレクター サラ・ジェーン・ホアのアシスタントとなります。

 ここでジミー・チュウとの出会いがあったのです!

 タマラは靴に対して並々ならぬ情熱を注いでおり、撮影に必要な理想の靴が無い場合は、ジミー・チュウとともにカスタムデザインの靴を作っていたそうです。

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 順風万歩に見えるタマラの人生に、大きな落とし穴が待っていました。

 もともとパーティー好きだった事から、毎夜クラブに出掛けてはシャンパンを飲みながら踊り狂い、ドラッグにも手を出してしまったのです。

 

 それでも仕事はしっかりとこなし、わずか1年でファッション・アシスタントに昇格しました。

 しかし夜遊びはますますエスカレートし、

 ついに『VOGUE』を辞めてリハビリ施設に入ることになってしまいました。

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 『ファーム・プレイス』という専門のリハビリ施設に入所し、6週間後にはロンドンへ戻る事ができました。

 そして、タマラの頭の中には新しいビジネスアイディアが大きく膨らんでいたのです。

 それが、ジミー・チュウと靴ビジネスを設立するというアイディアです。

 

 リハビリ施設から戻って最初に連絡した相手は、父でも母でも無く、ジミー・チュウでした。

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 こうして1996年、二人は共同で『JIMMY CHOO』を創業しました。

 創業時はタマラ氏の父トム・イヤーダイとジミー氏が株式を半分ずつ所有していました。

 また、ジミーの工房で靴作りを学んでいた一番弟子のサンドラ・チョイがクリエティブ・ディレクターに就任しました。

 

 ここで、サンドラ・チョイについて・・・。

 でも、今回はここまでです。

 ではでは。

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