こんにちは。
今日も晴れました。
暑くなってきましたが、心地良い風のおかげで助かります。
前回の続きです。
今季の僕はスリッポンが気になっています!
王道のローファーは以前特集したことがあったので、
今回は「王道の次」と言えそうなスリッポンに注目しています。
まずはファッションのお手本であり、
新しいデザインに挑戦する、
ファッションブランドのスリッポンを取り上げてきました。
最初は『GUCCI』の「ホースビットローファー」でしたね。
1953年に誕生した金具装飾を付けるというデザインにより、
王道のローファーより華やかでファッション性の高いローファーに仕上がりました。
その流れに乗って(?)、
他ブランドの金具装飾を付けたスリッポンをいろいろと見てきました。
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続いては、
シューズデザイナーブランドの金具装飾が付いたスリッポンを取り上げたいと思います!
基本的には服は作っていない、シューズデザインに拘ったブランドです。
老舗靴ブランドとはまた違った、ファッション性の高いデザインに拘ったブランドです。
こちらのブランドからです!
MANOLO BLAHNIK
Manolo Blahnik Carlton スエードローファー - ブラック
レディースシューズで有名なブランドですよね!
ただ・・メンズでは正直あまり馴染みが無いかなとも思います。
ただ・・レディースシューズを得意とするブランドならではと思えるデザインが気になってしまいました!
まずはブランドの歴史からチェックします。
こちらを読ませて頂きました。(感謝)
また、映画からの情報も読ませて頂きました。
映画「マノロ・ブラニク トカゲに靴を作った少年(Manolo: The Boy Who Made Shoes for Lizards)」: monad
親友が語るマノロ・ブラニク (1/3) - T JAPAN:The New York Times Style Magazine 公式サイト
1943年、マノロ・ブラニク・ロドリゲスは、バナナ農園を経営するチェコスロバキア人の父とスペイン人の母のもとに生まれました。
スペインのカナリア諸島・サンタ・クルス・デ・ラ・パルマのバナナ農園で育ちました。
テレビすらない生活環境の中、遊びは自分で考え出し、当時青色のトカゲのためにチョコレートの包み紙で靴を作ったことが初めての靴作り体験だったというエピソードがあります。これは映画にもなりました。
因みに、母は20世紀最高の靴職人と言われるヤントルーニの靴を好んで履いていたそうです。
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スイスのジュネーブ大学に進学しました。
法学や文学を学びましたが、自分にはあまり向いていないと気づいたそうです。
因みに、両親はジュネーブとゆかりの深い国連で働くことを希望しておられたそうで、その要求に応えて夏休みは国連のインターンとして働いたそうです。
休暇中に訪れたフランスで60年代のパリに一目惚れしました。
ブラニクはパリに渡り、芸術と舞台美術を学びました。
1968年、新たな刺激を求めてロンドンに移ります。
滞在許可証を得るために『フェザーズ』で働き、ショップオーナーだったジョーン・バーンスタインの下で広報とバイヤーの仕事を行います。
こうして、徐々にファッション業界へと足を踏み入れて行きました。
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ここで、こちらの記事を読ませて頂きました。(感謝)
1960年代、ブラニクはスウィンギング・ロンドンに沸く街の美しい人々を撮影するのが好きだったそうです。
絵を描き、写真を撮り、スクラップブック作りに没頭し、アンティーク収集をし、モデルもこなしていました。
彼の写真はアンディ・ウォーホルの『Interview』誌やイタリア版『VOGUE』にも掲載されましたが、ブラニク自身は写真を決して天職とは思わなかったそうです。
彼のポートフォリオには、女優のマリサ・ベレンスン、ブライアン・フェリー、ビアンカ・ジャガー、パロマ・ピカソ、グレース・コディントン、写真嫌いで知られるキャサリン・ヘップバーンまで、写っているそうです。
当時ブラニクは自身のシューズブティックを開いたばかりで、隣にたまたま住んでいたキャサリン・ヘプバーンがいたく彼の靴を気に入ったことから撮影が実現したのですね。
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ただ、当時本当にやりたかったのは映画の仕事でした。
そこで舞台装置のスケッチを大量に持ち、友人のパロマ・ピカソ(パブロ・ピカソの孫娘)を訪ねてニューヨークへ渡りました。
しかし、映画業界の人関係が自分には全く合わないことを知り、諦めました。
今回はここまでです。
ではでは。
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