こんにちは。
今日も晴れました・・が、
夜は降ったり止んだり・・。
アレが近づいている影響でしょうね。
この時期にアレって、、、早くない??
前回の続きです。
『FERRAGAMO』のスリッポンを取り上げようとしています。
FERRAGAMO メタルキャップトゥ スリッポン
まずはブランドについて知りたいので、歴史をチェックしています。
こちらの記事を読ませて頂いています。(感謝)
前回は、出生から、少年時代、15歳でアメリカへ渡り、ハリウッドで成功をしていったところまで書きました。
夜は大学で解剖学を学び、昼は顧客の足に直に触れて靴を作っておられましたね。
デザイン性だけでは無く、履き心地も追求した靴だからこそ、顧客との固い絆が生まれていったのではないでしょうか。
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イタリアへ戻ってブランドを創業する
1927年、サルヴァトーレはイタリアに戻り、フィレンツェに自らの靴工房『Salvatore Ferragamo』を創業しました。
なぜアメリカでは無く、イタリアに戻ってブランドをオープンしたのか?
これについてこちらの記事を読ませて頂きました。(感謝)
ハリウッドでは機械での生産を行っていましたが、完璧を追い求めるサルヴァトーレは手作りの靴にこだわりを持っていました。
そこで、イタリアで優秀な靴職人を大量に集めることで、機械式生産に負けないほどの大量生産を手作りによって実現し、最高の靴を世界に届けるという夢のために立ち上がったのです。
サルヴァトーレの凱旋は、上流階級や映画スターたち、アメリカの大手百貨店、そしてイタリアでも大変に歓迎されました。
しかし、靴作りの現場での対応は冷たく、ナポリ、ヴェローナ、トリノ、ミラノ、ヴェネツィア、どこへ行っても計画に賛同してくれる職人はいませんでした。
最後に訪れたフィレンツェでやっと60人の職人を高待遇でかき集める事ができました。
こうして作られたオリジナルシューズをアメリカで販売する事ができるようになりました。
しかし、カリフォルニアに残していた会社は全く回っておらず、運転資金も底をつきかけていました。
なんとかサルヴァトーレが出資者を説得して周り、ひとまず窮地を脱出したかのように見えました。
また、フィレンツェへ戻ると、60人いた職人は半分ほどに減っており、給料を払っていたのに何もしていませんでした。
腕利きの職人であったがために自分たちのやり方に固執し、それぞれ別の作り方をしてしまうためにとても出荷出来ない状況でした。
追い詰められたサルヴァトーレは残った職人も全て解雇し、
靴職人を目指す修行中の少年や学生を集めて工程に分断して作業に当たらせる方式を取りました。
こうして1ヶ月ほどで製品が出荷できる状態となり、アメリカに続き、ロンドン、パリ、ベルリン、アムステルダムといった国々にも輸出できるようになっていきました。
この頃、エジプト考古学の発掘品に影響受けてデザインされた「サンダル」が発表されました。
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倒産
しかし、イタリアでの販売をしなかった事で、大打撃を被る事になります。
サルヴァトーレはフィレンツェで靴作りの指導を行う必要があり、アメリカへ戻る事が難しくなりました。
カリフォルニアで販売をしてもフィレンツェに送金されず、資金繰りがどんどん悪化していったのです。
さらに1929年のニューヨークを起点にした世界恐慌で、ポンドとドルは大幅に価値を失い、ハリウッドの店はタダ同然で売却する事になりました。
ついには金融業者から借金をする事になりました。
事業は伸びており、靴も売れているにも関わらず、
1933年、債権を行使された瞬間に破産したのです。
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再出発
サルヴァトーレ・フェラガモは破産を機に自分を見つめ直しました。
そして復活に向けた決意をします。
ここから直ぐに行動を起こし、過去の顧客へ直談判をして、工場を閉鎖されてからわずか2日後には早速靴作りを再開したのです。
こうした貴族階級の婦人に友達を紹介してもらうというやり方で着実に注文を増やしていきました。
数年のうちに事業は回復して輸出も再開できるようになり、国内販売も増えていきました。
1938年には、フィレンツェの歴史的建造物スピーニ・フェローニ宮殿を購入し、そこに工房と本店を置きました。
1939年頃には、世界の主要な先進国で販売されるようになり、イタリアでも各地にサロンを開くほどになりました。
世界の名だたる人物がフェラガモのサロンを訪れる理由は、フェラガモのフィッティングにありました。
完璧に足にあった靴を履く事で、足を癒すだけでなく、精神面の安定や骨格の歪みまでも治してしまうという、まさに魔法のような靴だったからです。
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逆境をチャンスに
しかし、第二次世界大戦が起こります。
当時のイタリア・ムッソリーニ政権下で、皮革や金具などの材料が手に入らなくなりましたが、この逆境をチャンスに変えていきます。
新しい素材として、コルクやセロファンを試し、「ウェッジソール」を生み出しましました。
セロファンや透明なナイロン系を利用した独創的なデザインの「見えない靴」を発表し、
1947年、ファッション界のオスカーとも言われる「ニーマン・マーカス賞」を、当時アメリカ人以外で初の受賞を成し遂げました。
こちらの記事で「見えない靴」が見られます!(感謝)
確かにストラップ部分が浮いているように見えますね!
「斬新な素材使い、新しいフォルムの創造、機能性の追求からはフェラガモの靴作りに対する真摯な姿勢が読み取れる」
確かに!
また、こちらの記事では「ニーマン・マーカス賞」授賞式へ向かった時の面白いエピソードが書かれていますね。(感謝)
授賞式へ向かう船クイーン・エリザベス号の中で、クリスチャン・ディオールと初めて出会いました。
サルヴァトーレはファッションのニュースに興味が無いため、クリスチャン・ディオールの名前すら聞いたことが無かったそうです。
二人は式典のモデルのパレード用の靴とドレスをそれぞれデザインしていたのですが、まるで図ったかのように同じスタイルだったのです。
ディオールを知らなかったなんて・・。
そこにむしろ職人気質を感じてしまいますね!
今回はここまでです。
ではでは。
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