こんにちは。
今日は曇り気味の晴れでした。
湿気を感じるようになってきましたね、、、。
まだ風が心地良いので助かります。
前回の筒きです。
今季はスリッポンが、
特に「王道の次」と言えそうなスリッポンが、
気になっています!
まずはファッションのお手本と言える高級ファッションブランドのスリッポンを取り上げています。
次はこちらのブランドです。
FERRAGAMO メタルキャップトゥ スリッポン
これまで『FERRAGAMO』を取り上げさせて頂いた事が無かったので、
まずはブランドの歴史をチェックしたいと思います。
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フェラガモの歴史
こちらの記事を読ませて頂きました。(感謝)
1898年、サルヴァトーレ・フェラガモはイタリア南部カンパニア州に14人中11番目の子供として生まれました。
少年時代のサルヴァトーレ・フェラガモについて、こちらの記事も読ませて頂きました。(感謝)
少年時代
サルヴァトーレ・フェラガモは、よちよち歩きの赤子時代から向かいの靴修理屋ルイジ・フェスタのところに入り浸り、靴作りを眺めていたそうです。
9歳の時、妹の洗礼式に履く白い靴が買えなかったところ、向かいの靴屋から道具を借りて徹夜で白い靴を作り上げました。
イタリアでは当時靴屋というのは最底辺の仕事だったため、両親はサルヴァトーレが靴作りを学ぶことを反対していましたが、異常なまでの才能を垣間見て靴作りの修行を許可しました。
向かいの靴屋で靴作りの修行を始め、気がつけば一人で靴作りを手がけるようになっていました。
ここで学ぶことがなくなったため、ナポリに出ました。
ナポリの有名靴店でもわずか2週間で全てのことを学び取ってしまい、店を離れました。
故郷ボニート村に戻ると、わずか12歳にして自分の店を立ち上げました。
サルヴァトーレの作る靴は都会でも買えないような洒落たデザインで、良い素材を使ったとても良いものだと一気に評判になり、村での靴作りも大成功を収めました。
村での大成功に満足をしていましたが、どう頑張っても一日に作れる靴は限られています。
それを見かねた兄がアメリカへ一緒に来て、機械化をして靴の大量生産をしようと持ちかけました。
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アメリカへ渡る
15歳の時に、ボストンのブーツ工場で働いていた兄を頼りアメリカへ渡ります。
その後カリフォルニアに移り、サンタバーバラで靴の修理とオーダーメイドで製作する店を開店しました。
1923年、ハリウッドに「ハリウッドブーツショップ」を開店しました。
映画の衣装としての靴を手がけたり、名優たちを顧客にしました。
映画スター御用達となり、ハリウッドに進出した事でサルヴァトーレ・フェラガモの名前はアメリカで一躍有名になりました。
履きやすさを追求するため、地元の南カリフォルニア大学で人体解剖学を学びます。
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大学での学びについて、こちらの記事も読ませて頂きました。(感謝)
幼少の頃から天賦の才で靴作りの全てをマスターしたサルヴァトーレ・フェラガモでも、
唯一うまくいかなかったのが採寸でした。
そこで、彼は足の構造を学ぶようになりました。
ついには大学の夜間に通って解剖学を学ぶところにまで至ります。
夜は大学に通い、昼には実際に顧客の足に直に触れる事で、少しづつどんな足にもピッタリと合わせられる理想のフィッティングに近づいていきました。
ルーマニアの王妃は、
「つま先が泳いでいるみたい。この自由は誰も私から取り上げることはできないわ。」
と仰られたそうです。
1925年、歩行の際に土踏まずに体重がかかる事を発見し、画期的な靴型を作りました。
ある日、かなり太っていて、数メートル歩くのもままならないような女性が店を訪れました。
彼女のために作った綺麗なウォーキングシューズを履いた婦人は、数週間後にはまともに歩けいるようになり、20年後も街中を歩き回っています。
しかも、年相応の体型になって。
また、精神的に少しおかしいと思われていた妻や恋人にフェラガモの靴を履かせると、数週間後には「いったい何をしたんだ」と夫や恋人が訪ねてきたそうです。
これまでとは打って変わって活発になったり、笑顔が増えたりと精神的に良い方に変化が生まれて驚いたからです。
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さらに、サルヴァトーレ・フェラガモの考える正しいフィッティングについて、こちらの記事に書かれていました。(感謝)
最も大事なのは、土踏まずを支えるという感触を知ること、
もう一つは、つま先が自由であること、
との事です。
フェラガモは、靴は履いた瞬間から快適でなければならない、と仰られたそうです。
なぜなら、強い靴が足に合わせて変わるということは無く、強い靴に足の方が合わせてしまうから。
店でフィットしていない時点でその後も絶対にフィットしないのですね。
今回はここまでです。
ではでは。
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