こんにちは。
TV報道で家屋が倒壊する映像を観ました。
いたたまれないです。
東京は、曇りのち雨でした。
一時激しい雨になりました。
前回の続きです。
雨の日はレインブーツが安心ですが、
今季の僕はスリッポンが気になっています!
王道のローファーは以前特集したことがあったので、
今回は「王道の次」と言えそうなスリッポンに注目しています。
まずはファッションのお手本であり、
新しいデザインに挑戦する、
ファッションブランドのスリッポンを取り上げています。
次はこちらのブランドです。
Alexander McQueen
イギリスが産んだ天才ファッションデザイナー アレキサンダー・マックイーン によるシグネチャーブランドですね。
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あらためてブランドの歴史から確認したいと思います。
こちらを読ませていただきました。(感謝)
アレキサンダー・マックイーンの人生は映画にもなったので、そちらからの情報も得られました。
1963年3月17日、ロンドンの下町に6人兄弟の末っ子として生まれました。
父親はタクシー運転手、母親は教師でした。
16歳で高校を中退し、パブで仕事をしていたそうですが長く続きませんでした。
仕立屋職人が人手不足というニュースをたまたま見た事がきっかけで、
サヴィル・ロウの『Anderson&Seppard』、『Gieces&Hawkes』で見習い工として3年間仕立てを学びました。
皇太子のスーツの裏地に挑発的なメッセージを刺繍したという逸話があるのですね。
反骨精神に満ちた青年だった事がうかがわれます。
その後、舞台衣装を手がける『Angeles&Bermans』に移り、16世紀の衣装から現代的なスーツの仕立てまで、6つの異なるパターンカッティングを身につけました。
その後『Koji Tatsuno』のもとで働きましたが、会社が倒産。
これを機にイタリアへ渡り、『Romeo Gigli』等のもとでキャリアを積みました。
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21歳でロンドンに戻り、名門ファッション学校セントラル・セント・マーチンズの修士コースで学びました。
1992年、卒業コレクションで「切り裂きジャック」をテーマにした卒業制作を発表しました。
これは母ジョイスの祖先が経営していた宿屋に犠牲者の一人が滞在していたことから、歴史的事件と祖先の系譜を融合して過去と未来を表現したもの、と考えられているそうです。
このコレクションを伝説的ファッションエディターのIsabella Blowが5000ポンドという破格の値段で全て買い上げ、UK版『VOGUE』で身につけて誌面を飾りました。
学校を卒業したばかりのデザイナーが『VOGUE』に掲載されることは前代未聞だったそうです!
貴族階級出身のイザベラと労働者階級出身のマックイーンは正反対な生い立ちでしたが非常に気が合い、イザベラは彼をハイファッションの世界で成功させるために非公式のサポートをされたそうです。
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1992年、卒業と同時に自身のブランド『Alexander McQueen』を立ち上げました。
1993年、ロンドン・コレクションでランウェイデビューしました。
初ショーのテーマは、映画『Taxi Driver』にインスパイアされ、父親にもオマージュを捧げたものでした。
当時失業手当でなんとか生きていたマックイーンはサランラップやラテックスといった安くて変わった素材を使用して注目を浴び、
ヒップが見えるほどのローライズパンツ「バムスター」が一世を風靡して90年台のトレンドを作りました。
1995年、自身の祖先がスコットランド人であったことから着想を得たコレクション「Highland Rape (ハイランド・レイプ)」はマックイーンを一躍有名にしました。
ファッションプレス達からは「暴力的」、「マックイーンは女性を嫌悪している」と大バッシングが起こったそうです。
しかしマックイーンは、これはスコットランドがイングランドに蹂躙されてきた歴史を表現したものであり、女性を被害者ではなく強い存在として見せたいと説明しました。
そして「私は女性に力を与えたい、人々が私の服を着た女性に恐れを抱くようになってほしい」と語りました。
1996年春夏、「The Hunger (渇望)」は命の儚さを象徴したコレクションでした。
1996年秋冬、「Dante (ダンテ)」コレクションでは、フロントロウに骸骨が並べられました。
1996年、ブリティッシュ・デザイナー・オブ・ジ・イヤーを受賞しました。
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1996年、ジョン・ガリアーノの後任としてLVMHの傘下にある『GIVENCHY』のクリエイティブ・ディレクターに抜擢されました。
27歳の若手デザイナーとしては破格のギャラでオファーされたそうです。
この時、イザベラを契約から外すという出来事が起こり、二人の仲がギクシャクとしていきました。
テーラードの技術と前衛的な美を持ち込むことで保守的なパリのモードに新しい風を吹かせました。
当時フランスのメゾンでは、職人がアトリエに出入りする事が禁じられていましたが、マックイーンは因習を打ち破り、職人達を気にせずに招き入れたそうです。
周囲から酷評されることもしばしばあり、その時期は精神的に辛かった時期と語っていました。
自身のブランドと『ジバンシィ』を行き来して年に14回ものコレクションをこなし、非人間的なスケジュールとプレッシャーに圧迫されて疲れ果てていましたが、
『ジバンシィ』からの報酬で自分のブランドを経営していたことから、LVMHとの契約を打ち切ることはできませんでした。
2000年、グッチ・グループが『Alexander McQueen』の株式の約半分を買収する話が持ち上がり、クリエイティブな面はマックイーンが全指揮を取るという条件で合意しました。
これによりLVMHとの関係が拗れ、契約期限終了前に更迭されました。
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2002年春夏より、自身のブランドをパリコレクションにて発表しました。
同年クチュールのメンズコレクションを発表しました。
2006年春夏コレクションのフィナーレで、当時薬物スキャンダルで批判されていた良き友人ケイト・モスを励ますために「We Love Kate」とプリントされたTシャツを着てランウェイに登場しました。
秋冬コレクションではホログラム映像でモスを登場させました。
2006年春夏、『PUMA』とのコラボレーション『Alesander McQUEEN PUMA』を発表しました。
2006年春夏から『McQ』をスタートしました。
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2007年11月、イザベラが自殺し、マックイーンを打ちのめしました。
イザベラの死後に発表された「サラバンド」コレクションは、彼女への想いが託されていたかのようだった、との事です。
2010年春夏「Plato's Atlanti (プラトンのアトランティス)」コレクションで、マックイーンは初めてオンラインでライブストリーミングを行いました。
アルマジロシューズはレディー・ガガが愛用して有名になりました。
2010年2月11日、40歳で自殺しました。
その日は母ジョイスの葬儀の前日でした。
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「「服は美しい物だが外には現実がある。
現実に耳をふさぎ、世界は楽しいと思う人に現実を伝えたい」
by アレキサンダー・マックイーン」
「ファッションで身体を飾り、時には覆い隠すことで、“身体の表面”をできる限り美しく加工する私たち。
一方、マックイーンは私たちが隠したがる“人間の内面”をファッションをとおしてあぶりだそうとしました。
彼にとってファッションは、自己の存在や人間性を表現した芸術的手段だったのです。」
ファッションで内面を隠し、現実に耳を塞ぐのではなく、
ファッションで内面をあぶりだし、現実を伝えた、
デザイナーだったのですね。
こうした姿勢は現代のデザイナーにも引き継がれていると思います。
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2010年5月、Sarah Burton(サラ・バートン)がクリエイティブ・ディレクターに就任しました。
彼女は1996年から『Alexander McQueen』で働き、2000年からウィメンズウェアのヘッドデザイナーとして活躍していました。
2011年、サラ・バートンがブリティッシュ・ファッション・アワードのベスト・デザイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞しました。
ちなみに、キャサリン妃のドレスも彼女が仕立て、話題になりましたね。
2024年春夏コレクションをもってサラ・バートンが退任しました。
2023年10月、ショーン・マクギアーがクリエイティブ・ディレクターに就任し、2024年秋冬コレクションでデビューコレクションを発表しました。
今回はここまでです。
ではでは。
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