こんにちは。
今日は曇りのち雨で、凄ーく寒かったです。
夜は冷たい雨が、、、。
晩ご飯はもちろん(!?)、鍋。(ありがとう)
では、サイドゴアブーツです。
JMウエストンの次だから、という訳では、、、あるのです!(笑)
フレンチブランドが続きます。
Paraboot MANEGE
パラブーツはUチップの時にも取り上げましたね。
今回は更に力を入れますよ!
だって、僕もマネージを履いているから!!(笑)
まずはパラブーツがどんなブランドなのか、
その歴史を見てみましょう。
歴史
詳しい事が公式HPで紹介されていますね。
人気ブランドだけあって、要点が抽出された記事もいろいろと見つかりました。
初代
その始まりは1908年まで遡ります。(老舗!)
靴用の皮革裁断師Remy-Alexis RIchard(レミー・アレクシス・リシャール)がフランス中東部、アルプス山脈の麓にある小さな村Izeaux(イゾー)にて、オーダーメイド靴の工房を開設しました。主な顧客は企業経営者や軍関係者、そして登山家、となっていますね。
その後、Juliette Pontvert(ジュリエット・ポンヴェール)を妻に迎え、1910年に二人でRichard-Pontvert(リシャール・ポンヴェール)社を設立します。
会社名はご夫婦の名前から来ているのですね!
そして、レミーは「Chaussures Extra」ブランドと洗練された高級靴コレクションを立ち上げました。
その当時の靴と思われる資料がありますね。
1910年代頃のドレスシューズでしょうね。
バルモラル (内羽根)のショートブーツで、サイドの革の切り返しが特徴的です。
バンプの革の切り返しが甲から踵へ水平に真っ直ぐ伸びるロングバンプですね。
近年このようなデザインのブーツをちらほらと見かけますが、この頃のデザインだったのかぁ。(学)
戦場に送られたレミーは負傷して帰還しましたが、靴の経営を再開します。
パリの中央市場レ・アルの近くに工場を借り(後に購入)、
1920年にはイゾーに最初の工場を購入します。
そして労働者向けの編み上げ靴を『Galibier(ガリビエ)』ブランドとして作成し、1922年に商標登録します。
1926年、レミーは渡米します。
それはラテックス、ヘヴィア、ゴムなどと呼ばれる全く新しい素材で作られていました。
レミーはこの素材とノウハウを、購入したばかりの新工場Tullins Fures(イゾー近隣の小さな街)に持ち帰ります。
そこで防水性を保証する長靴とブーツの製造を始めました。
因みに、フランスでは既に1853年にヒラム・ハッチンソンがロワール地方にラバーブーツの工場を設立していました。それがAIGLEです。
1927年、『Paraboot』の名前を商標登録します。
これはラテックスを輸入するアマゾンの港「Para」とアメリカ合衆国で発見した興味深いBootを合わせた名前です。
その一方で、『Extra』ブランドとして、柔らかい絨毯の上を歩くための薄い革製ソールを使用したより洗練された靴も作り続けます。
これも当時のカタログでしょうか。
オックスフォード(短靴)もあり、 現在の靴とほぼ同じようなデザインですね。
コバの張り出しがありますが、シングルウェルトで幾分ドレス感が強いでしょうか。
ウエストもウィズも細いですね。
初代の頃に、ドレスシューズに加えてワークシューズにも力を入れていったのですね。
そして現在もブランドの核となっているラバーソールの製造も始めていますね。
まさにブランドの礎を築かれました!(尊)
二代目
1937年、20歳になったレミーの息子Julianが会社に入ります。
その後、戦争が勃発し、軍事占領下で原料が不足して生産が落ちていきます。
戦争が終わると、簡単で安く作れるプラスティックソールの使い捨て靴を作る新しい工場が次々と作られ、古い伝統的な工場は現代的な経営が出来ずに閉鎖していきました。
ジュリアンも経営者としてあるジレンマと向き合わなければなりませんでした。
他の工場と同じようにセメント製法を取り入れるか、
今までの顧客に絞ってそれに合わせた製法を守り抜くか。
彼は重いソールと厚い革を使用した靴を中心に製造する事を決めます。
グッドイヤー製法とノルウィジャン製法で作られた靴は、丈夫で履き心地の良い靴を求める農業者や羊飼、配達員や工員などの立ち続ける職業の靴に適していたのです。
同時に建築家や測量士や獣医など技術者の為に、より軽量な編み上げ靴を製作します。それが「Morzine」です。
1945年にはワーク向けの「Morzine」をより洗練させた「Michael」が登場しました。
因みに「Michael」は、ジュリアンの息子で後に会社を引き継ぐMichaelの名前からきているそうです。
1960年代、ジュリアンは流行となりつつあった趣味のスポーツ分野に需要を見つけようとしました。技術と特殊性を持った靴が必要とされる世界です。そこで『Paraboot』の影に薄れてしまっていた『Galibier』ブランドがスキー、アフタースキー、登山靴の最初の象徴となります。
そして、彼の家には最も有名なアルピニスト達が集まってきました。
ジュリアンは大衆的に流行し始めたスキー靴の製造より、登山・ロッククライミングの「山」関連の靴製造へと進みます。
当時の広告でしょうか。
ガリビエールは本格的な登山靴ブランドとして今なお信頼と人気を誇るブランドなのだそう。
なぜパラブーツがガリビエールを?大人気トレッキングシューズの「アヴォリアーズ」 - パラブーツ専門通販店【Pas à Pas】の店長ブログ
ここから現行品のAVORIASへ繋がるのでしょうね。
1970年代には新しいヒューマンアドヴェンチャーを生む他のスポーツ靴の製造を始めます。
例えば、パラシュート、火山研究、飛行機パイロット、バイク、乗馬、カントリースキー、スケート、です。
専門性の高い分野で技術力が磨かれていったのではないでしょうか。
二代目の頃は、新しい分野への挑戦が盛んで、ブランドの可能性を広げましたね。
そして、技術力も磨かれていき、専門性の高い高品質な靴を作る事で信頼を獲得していったのですね。
三代目
しかし、1980年代、会社は暗黒の時代を迎えます。
ジュリアンは商品と人との交流には長けていましたが、利益その他の財務比率には無頓着でした。インフレと第一次オイルショックと借金とで会社は窮地に陥ったのです。
1973年には国際企業にいたジュリアンの息子Michaelを呼び寄せます。
その頃のビジネス界では社会と銀行関係の全てにおいて厳しい規定を守る厳格さが求められました。
1979年、銀行の態度に嫌気がさしたジュリアンは息子に経営の全てを任せて会社を後にし、二度と戻る事はありませんでした。
入社6年目のミカエル は「利益が出る」市場に生産を絞り込み、生産力を上げながら雇用費用の削減、情報処理の普及、生産過程の合理化、に取り組みます。
しかし80年代のはじめ、売り上げの45%を輸出に頼っていた小さな靴工場はドルと円の暴落の影響を受けます。
苦しい状況が2年間続いた1983年の終わり頃、ミカエルは破産の申し立てをしました。
しかし、組合と商事裁判所はこの会社の未来に信頼を置き、経営の続行を承認します。
ミカエル は商事裁判所と交渉をしながら、イタリアで商機を探しました。
そしてイタリアのスタイリストたちに見出されたのがParabootの「Michael」です。
これが会社を救います。
この流行はすぐに浸透し、注文が殺到したのです。
会社の危機を救った靴が「ミカエル」で、当時の社長がミカエル氏というのも運命的ですよね!
そしてParabootのコレクションは、贅沢品ではなく、高級品としてのポジションに位置づけをしていきました。
1987年にパリ、リヨン、ニースに自社の名前のショップをオープンさせました。
1994年にはアンヴェール(ベルギー)にもブティックがオープンしました。
2001年には東京(日本)、2003年にブリュッセル(ベルギー)、2012年に北京と三亜(中国)、2015年に大阪(日本)に進出しました。
三代目の頃は、先代が広げ過ぎた挑戦によって経営難に直面しましたが、ファッションと結び付く事でそれを乗り越えることが出来ました。
そして、先代が挑戦してきた中から中核となるものを見出し、そこに注力することでブランドの個性と強みが広く知られるようになりましたね。
四代目
そして2000年代、Parabootは4代目に引き継がれました。
2017年、イゾーとフュールの2つの工場を閉鎖し、全企業がSaint Jean de Moirans(サン ジャン ド モワラン)の環境にやさしい近代的工場に集約しました。
Parabootは銀座と札幌にブティックをオープン。
パリのプランタンとギャラリー・ラファイエットにも再び商品が置かれるようになりました。
今現在もパラブーツの新しい歴史が刻まれていて、そこからどのような成果が生み出されるのか楽しみです!
ふぅぅ〜〜、結構なボリュームでもうお腹いっぱいです。(笑)
流石に老舗ブランドの歴史は波乱万丈で、
その1つ1つの積み重ねで今日の魅力的なブランドがあるのですね。
今回はここまでです。
ではでは。