こんにちは。
今日は曇り気味の晴れ?
少し肌寒く感じました。
エシュンのローファーのお話はもう少しお休みです。
というのも、あまり後回しにしたくない話題について書きたいと思いまして。
ただ、なかなか難しい話題で、、、文章が進まない。(沈)
後回しにしたくない気持ちと僕の能力とのギャップに悶えています。(苦、、笑)
先日、ちょっと僕のアンテナに引っ掛かった雑誌がありました。
まずはこちら。
大阪なおみさんのお話も良かったです!
で、今回話題にさせて頂きたいのは、
コム・デ・ギャルソンの川久保玲さんのインタビュー記事です。
詳細は是非本でご確認下さい。(勧)
あらためて川久保さんはデザイナーであり経営者でおられるのだなと思いました。
アートでは無くファッション、
服を作り、服を買ってもらい、服を通してコミュニケーションする。
それを実現するにはデザイナーであり経営者であるという事が理想的なのかなもしれませんね。
ただし、それは非常に難しい事なのでしょうね。
ゆえに、多くの有名ブランドが巨大資本の傘下で経営がなされ、デザイナーが選任されては交代していくのかな(?)、と。
本題に戻りますね。
インタビューではいろいろなテーマの質問がされていましたが、
僕の印象に残ったお話を、僕の勝手な解釈で。
新しい生活様式におけるファッション
考えてみれば、確かに、コロナ禍で人々が外出しないという事は、
服を買いにショップへ行く事が無くなりますし、
着ていく場所も無い・・・。
メンズで言えば、スーツや革靴を着用する機会が無くなった、という話も聞きますよね。
新しい生活様式では、スマートな部屋着だけあれば良いのだろうか???
僕もあれこれ考えてしまいました。
ファッションというのは他者に対して見せるという事だけでは無く、
自分の気持ちに影響を与えてくれるという事もあるように思います。
僕自身、決して高尚なことを言えるほどきちんとしたファッションをしているわけでは無いのでアレですが、、、。(萎縮)
ただ、
低価格ファッションブランドをあまりにも礼讃する風潮や、
おしゃれの公式通りに着れば良いという風潮には、
正直「?」も感じるかなぁ。
もちろん、人それぞれ価値観や優先順位は違いますし、服についての関心や考え方もいろいろありますから、僕の「?」はあくまで僕の「?」に過ぎないのですが、
「手軽で便利で即効性高い!」みたいなキャンペーンに煽られて、何か大事なものが失われていないだろうか?
と思う事があります。
あぁ、何だか刺々しくネガティブな方向へ話が逸れてしまっていますね。(嫌)
話を戻します。
新しい生活様式に変わっても、袖を通して感じる服の力は有るのではないかな。
僕もそう信じたいのかもしれませんね・・・。
コロナ禍の状況で1年が過ぎましたが、
物理的に外へ出られない事で、どうしても内向きになってしまうのかもしれません。
身近な物事に目を向けたり、自分自身に目を向けたり。
そういう意味では、服はとても身近な個人的なモノでもありますよね。
コロナ前の服が外(社会)を意識した存在であったとするならば、
コロナ禍の服は自分の内面と対話するような存在なのかもしれませんね。
近藤麻理恵さんが仰られる「ときめき」という言葉がしっくりきます。(的)
そして、コロナ後の服はどのような存在になるのでしょうね??
環境問題とクリエーション
環境問題に対する意識と取り組みは必要ですが、それが過剰にエスカレートする事でクリエイションが失われるのではないかという不安はあります。
もちろん、今はクリエイションを優先して環境に悪影響を与える事はなかなか許されないでしょう。
なので、環境問題に取り組む事が前提でクリエイションをしなければいけないのでしょうね。
ただ、環境問題への取り組みといっても際限が無いですよね。
どこまですれば許容されるのか・・・。
非難しようと思えばいくらでも出来る訳です。
それがエスカレートし過ぎると、クリエイションの余地が無くなるのではないかという不安はありますね。
一体この不安がどこから来るのだろうかと考えているのですが、
ひょっとしたらコロナ禍で起きた「自粛警察」なのかなぁ・・・。
環境問題に取り組む事がイノベーションとするならば、
新しい価値を創造する事、未来を切り開く事がクリエイションでしょうか。
イノベーションは大事ですし必要ですが、それだけで良いのだろうか、
クリエイションの無い世界に明るい未来があるのだろうか、
と考えてしまいます。
まだ誰もが納得できる回答は出ていないように思いますし、
今は暗中模索、過渡期、といった状況なのかな。
明るい話題では無かったのですが、
考えなければいけないのかな、と思いました。
今回はここまでです。
ではでは。