こんにちは。
今日は曇り、のち晴れ、のちゴロゴロ。
崩れ局面が1回入るのが普通になってきたように思います。
前回の続きです。
『GIORGIO ARMANI』のスリッポンについて取り上げようとしています。
まずは、ブランドの歴史からチェックしています。
アルマーニの歴史 (続)
こちらを読ませて頂きました。(感謝)
ジョルジオ アルマーニの歴史を“モードの帝王”アルマーニ自身の言葉と紐解く、独自のエレガンスとは? - ファッションプレス
前回は、
創業者ジョルジオ・アルマーニが1934年(7月11日だそうです)にイタリアのピアチェンツァに生まれたところから、
医学の道へ進むも退学し、
兵役につき、
大手百貨店『リナシェンテ』に入社して徐々に才能を開花させていった、
ところまで書きました。
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アルマーニのデザイナーとしての最初のキャリアは、ニノ・セルッティの新しく開いたブランド『ヒットマン』でした。
1965年、『リナシェンテ』の広報部長だったアドリアーナ・ボッティの紹介で『ヒットマン』のアシスタントを探していたニノ・セルッティに紹介されました。
そして、当時紳士服のプレタポルテという新しい試みに挑戦しようとしていた『ヒットマン』のメンズウェアのデザインに携わることになりました。
『ヒットマン』でアルマーニのスタイルであるスーツの内部構造を取り払ったソフトで着心地の良いジャケットを提案し、フォーマルなスーツのイメージを覆すことに成功しました。
さらに広告キャンペーンでも斬新な試みをしました。
服もモデルの顔すらも写っていない「ヒットマン バイ アルマーニ」は、
批判もされましたが結果的には大成功を収めました。
ヒットマン時代には『モンテドーロ』や『シコンズ』といった他ブランドのコレクションもデザインし、大成功を収めました。
『VOGUE』創刊初期に当時編集者だったジゼッラ・ボリオーリとともに掲載アイテムを選ぶなど様々な活躍をしていました。
ヒットマンで働いた8年は、ジョルジオ・アルマーニという人間を形成する上でとても大きな意味合いを持っていました。
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『ジョルジオ・アルマーニ』の設立に関してはある1人の人物が大きな役割を担いました。
セルジオ・ガレオッティです。
やがて公私共にパートナーとなり、アルマーニのデザイン以外の仕事を全て引き受ける人物です。
アルマーニは8年間をヒットマンで過ごし、すでに表現できることに限界を感じていました。
そこにガレオッティが現れ、強烈な熱意と説得によってセルッティの元を離れ、ミラノに小さなオフィスを構えました。
1975年、アルマーニ41歳の時、『GIORGIO ARMANI』が設立されました。
創業当初から、
ガレオッティはマネジメント全般の一切を取り仕切り、
アルマーニがデザインやクリエイティブな仕事に没頭する、
という役割分担でした。
ただ、創業後しばらくは『ヒットマン』のデザインも続け、
『モンテドーロ』、『シコンズ』、『ウンガロ』、『エルメネジルド・ゼニア』、『バグッタ』、『アレグリ』、『ジボ』、『ヒルトン』、『スピリト』、『ロエベ』
なども引き受けていました。
『ジョルジオ・アルマーニ』を創業した1975年に開いた最初のメンズコレクションは大成功を収めました。
さらにその3ヶ月後の初のレディースコレクションでは、男女の枠を超えたユニセックスなレディースウェアを発表し、アルマーニの性別を超えた独自のスタイルの原点を垣間見せました。
この当時、イタリアのモードはフランスに比べてはるかに遅れていました。
そんなイタリアンモードをいち早く受け入れたのは、アーティストや建築家、俳優といったファッションの先端を行く人たちでした。
これまでのメンズウェアで当たり前だった堅苦しさを取り除き、気やすさや緩いエレガンスを提唱し、新たなファッションスタイルが確立されていきました。
その最たる例が「アンコンストラクトジャケット」です。
肩パッドや、裏地も芯地も入っておらず、カッティングやボリュームを根本から見直す事で、スーツ特有の鎧のような堅苦しさの無い、軽快でソフトなシルエットによって着る人の魅力を引き出すジャケットでした。
アルマーニは最初のコレクション発表当初より大評判となり、
資本金1000万リラだったのが、
わずか1年後には56倍の5億6000万リラまで急成長を果たしました。
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アルマーニの名声はすぐに海を越え、アメリカにまで伝わりました。
『バーニーズ ニューヨーク』の社長フレッド・ブレスマンがジョルジオ・アルマーニを訪れ、店舗での取扱を決めました。
1976年には9万ドルを売り上げ、
その後6年で2400万ドルまで急成長します。
アメリカでは女性の社会進出が進み、女性のファッションに新しいスタイルが求められていた背景もあります。
オフィスファッションとしてふさわしく、それでいてエレガントなアイテムという相反する要素を両立させたアルマーニのスタイルは女性の魅力を引き立てるものでした。
アルマーニは国際的なスターとなっていました。
1978年、アカデミー賞主演女優賞を受賞したダイアン・キートンがアルマーニのジャケットを着て舞台に上がりました。
1979年、ディフュージョンライン『ARMANI COLLEZIONI』と『MANI』を発表しました。
通称「ホワイトレーベル」です。
同年、デザイン界のオスカー賞とまで言われるニーマン・マーカス賞を受賞しました。
イタリアではミッソーニやエミリオ・プッチなどわずか数人しか受賞したことのない栄誉ある賞を、設立からまだ4年のアルマーニが受賞したのです。
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1980年、リチャード・ギアが主演を務めた映画『アメリカン・ジゴロ』で主演のリチャード・ギアの衣装を当しました。
これが、アルマーニの初めてのオフィシャルでの衣装協力でした。
アルマーニファッションが映画のクローゼットに並び、その存在感をいかんなく発揮しました。
ここからアルマーニの世界的な成功が始まっていきました。
顧客リストには、ダイアナ・ロス、ダスティン・ホフマン、ジャック・ニコルソン、ローレン・バコールなど世界のセレブが並ぶようになっていきました。
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1981年、セカンドライン『EMPORIO ARMANI』と、『ARMANI JEANS』を発表しました。
「エンポリオ」とは、市場(なんでも売っているような大きな市場)の意味があるそうです。
『ジョルジオ アルマーニ』のエレガンスはそのままに、表現しきれていなかったアルマーニのもっと自由なマインドを表に出したブランドです。
そして、ブティックでは、他のファッションブランドとは異なり、本やライフスタイルグッズも一緒に並べて「トータルライフスタイル提案」を行いました。
これが現代のセレクトショップの先駆けになったとも言われているそうです。
また、マーケティングの分野においても先駆的な方法をとりました。
どこよりも早くブランドの世界観を発信するカタログ「エンポリオ アルマーニ マガジン」を発信しました。
ミラノ市内には大きな壁面広告を継続的に展開し、ミラノのシンボルとして認知されました。
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1980年代、日本ではバブルの時代で、アメリカやヨーロッパにおいても世の中は混沌としていきました。
ディスコが流行り、派手なファッションが好まれ、金こそが全ての時代に突入しました。
派手なスーツ、ブランド物のが流行り、肩パッドが女性のアピールにもなった時代です。
この頃にはアルマーニ最大のライバルである『ジャンニ ヴェルサーチ』や『エンリコ コベリ』などのファッションがもてはやされました。
このような時代においてもアルマーニは自らの姿勢を崩さず、着心地の良い服を作り続けました。
そして、脚本家ジェイ・コックスが『タイム』誌の映画・音楽評論家をしていた時に偶然アルマーニの服を目に留めたのです。
ジェイ・コックスはアルマーニという人物の記事を書こうとイタリアまで赴き、『タイム』誌の表紙を飾ることになりました。
『タイム』誌の表紙に載るというのは想像以上のもので、ヨーロッパのクチュリエとしてはクリスチャン・ディオールしかいませんでした。
ここから直営店の展開を開始し、その年のアルマーニの売上高は3倍へと跳ね上がりました。
今回はここまでです。
ではでは。
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